鬼の霍乱 参 道長の最後
道長は50代になったころからたびたび激昂するようになります。
糖尿病は、口渇、頻尿、るい痩、脱力感といった身体症状だけでなく、不機嫌、怒りっぽさ、抑うつなどの精神面の異常をおこすことが知られています。
晩年の道長の挙動には、糖尿病による躁鬱病が関係している可能性もあります。
寛仁三年(1019)二月六日の「小右記」には
心神常の如し。
而し目尚見えず。
二三尺相去る人の顔見えず。
只手に取る物のみ之を見る。
何ぞ況や庭前の事をや。
…思い歎くこと千万念
糖尿病には白内障を併発することがあるようで、道長の目の病は白内障と考えられています。
道長は己の権力のために、目を患っていた三条天皇から帝位を奪い、太政大臣へと昇り詰めました。
道長は、三条天皇が失脚後に失明し、その後の暗澹(あんたん)たる余生を知っているため、皮肉にも同じような病で苦しむことになり、不安と恐怖におののくようになっていきます。
平安時代は、戦国時代のような武力闘争というよりも、頭脳戦争の世の中でした。
貴族の間では、はげしい権力争いが繰り返され、神経は異常に過敏となり、物の怪に怯えて、心身を衰弱させていたのです。
「源氏物語」では、六条御息所の物の怪が有名であり、光源氏の愛人たちを次々にたたっていくという壮絶な描写があります。
五女の寛子(かんし)、四女の嬉子(きし)、次女の妍子(けんし)を相次いで亡くすこととなり、最後まで亡霊におびやかされつづけたのが道長でした。
おのれの権力のために娘たちを意のままに利用して、その娘たちが怨敵の亡霊によって死の世界へと連れていかれる姿を目の当たりにしたのです。
62歳を迎えた道長は、妍子を見送って間もなく、病勢が急激に悪化します。
10月に痢病、11月に失禁状態、さらに背中に「癰(よう)」という腫物ができます。
糖尿病は癰などの化膿を併発しやすく、当時、何人もの公卿が死亡しています。
11月末に意識不明となり、12月に入って、医師が癰に鍼をさして膿血を出す処置をしました。
その際、大きな悲鳴をあげた道長は、4日の早朝、息を引き取りました。
栄光と権力の絶頂にあった道長でしたが、糖尿病で瘦せ衰え、白内障で目が不自由となり、度重なる心臓発作の激痛に堪え、亡霊に怯えて精神を病み、最後に癰の激痛に苦しみながら悶死したことになります。
としくれてわが世ふけゆく風の音に
心のうちのすさまじきかな
紫式部は何を思ってこの句を詠んだのでしょうか。
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