鬼の霍乱 伍 瘧疾(ぎゃくしつ)
藤原道長が33歳のとき、ひどい腰痛を患いました。
よほど病状が悪かったのか、官職を辞す覚悟をしたほどだったようです。
それでも34歳のとき、長女彰子(しょうし)が入内したことで、家門栄達に火が付き、権力の頂点を目指して猛進をはじめます。
50歳を迎えて太政大臣の地位についた道長でしたが、危うく腰痛によってその夢が潰える可能性があったことになります。
その後の道長ですが、39歳の時、「霍乱(かくらん)」に、47歳の時、「瘧病(おこりやまい)」に、さらに50歳を超えたころから「糖尿病」を発症しました。
50歳を迎えるまでの病歴は、道長だけに特有のものではなく、当時の公卿であればだれもが体験するものでした。
さて、現代では聞くことが無くなった「瘧病」ですが、実は「マラリア」のことです。
古来、「瘧疾(ぎゃくしつ)」「わらはやみ」「えやみ」「おこり」といろんな呼び方がありましたが、江戸時代に「瘧(おこり)」が通称となります。
マラリアは、マラリア原虫を持った蚊に刺されることで感染します。
感染すると、突然、激しい震えに襲われ、40度前後の高熱が4、5時間続いたあと、突然に平熱に戻り、二日ないし三日後に再び熱発作が生じます。
マラリアというと熱帯の病気と思われがちですが、マラリア原虫に感染した蚊は湿地で繁殖することから、水田が広がる日本では昭和になっても地方で発生が多発し、終戦直後にGHQの指導によってマラリア撲滅運動が繰り広げられました。
地球温暖化の問題で、再び日本での流行が危惧されていますが、つい最近まで身近な病気だったことになります。
そんなマラリアですが、日本ではいつ頃から確認されていたのでしょうか。
「瘧(ぎゃく)」の文字は、701年に完成した大宝律令の「医疾令」に出てきます。
医疾令は日本最古の医療制度の法令で、宮内省に「典薬寮」を設置して宮廷官人の治療を担い、医学、薬学の教育機関としての役割も果たしました。
その医疾令に、「典医薬は歳ごとに、傷寒、時気(ときのけ)、瘧、痢、傷中、金創について、諸々の雑薬を量り合わせて、治療できるようにしておくこと」とあります。
ここに記載されている病はどれも、当時としてはありふれた病でしたが、同時にとても重要なものばかりでした。
インフルエンザのような悪寒を伴う疫病を傷寒と呼ぶ一方で、高熱が出る感染症を瘧として区別しているところが注目です。
傷寒と瘧は感染症としては同じですが、罹患してから発症する症状に大きな違いがあり、治療方法においても当時の治療師たちはきちんと対応していたことがわかります。
実は、「瘧」という字は中国医学の専門用語です。
中国の字書「説文解字」には、瘧は「二日に一度寒熱発作がくる病気」で、「やまいだれ」と「虐」の字からなり、「虐」は虎と爪が合わさった文字とあります。
虐とは、虎が爪で人を殺害する様子を意味しています。
古代の中国人にとって、瘧は高熱で始まり、激しい症状が出現するため、猛虎に襲われて殺されるシーンを彷彿させるような病気だったことになります。
傷寒と異なる温病学が中国で成立することで、「瘧」の治療法が確立されます。
それは明代末から清代初頭の呉有性の著した「温疫論」(1642年)に始まり、その後に温病学としての臨床的な体系が進むことになります。
傷寒論誕生から1000年以上も時が流れたことになります。
ゆえに、道長が活躍した平安時代には「瘧」に対する効果的な治療法は、まだそれほど確立されておらず、中国や韓国、日本のすべての国でその治療に苦慮していたことになります。
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