さよなら、くろべ
ブログ「君の名は」で紹介したTさんの愛犬くろべが亡くなりました。
2024年春、左眼下に腫瘍ができました。
Tさんの治療に訪れるたび、その腫瘍が大きくなっていくことがわかりました。
わかっていても、私には何もできることがなかったです。
昨年の夏の猛暑を乗り越えることができないのではないかと、心配していました。
くろべは、黒毛のラブラドールレトリバーで、とても人懐こい犬でした。
往診で、私がTさんの玄関に着く頃には、必ず柵のところに出てきて、私を出迎えます。
私が挨拶をすると大きく尻尾を振り、近くまで行くと柵に身体を寄せてきます。
いつしか背骨に沿って指圧をするのが習慣となり、腰のあたりを押してあげるとジッと動かず、いつまでも催促します。
その様子を窓から見ているTさんは、「くろべ、気持ち良いんか?」と声をかけます。
こんなやり取りが恒例になっていたのですが、夏が近づくにつれて、背中の筋肉が痩せて細くなっていくのを指先に感じていました。
夏場は、地面が日光で焼けて足場が熱いことや、黒毛の身体が焼けることもあり、毎年、くろべには過酷な生活環境です。
7月20日、梅雨明けから猛暑が始まり、くろべは柵の周辺に姿を現さなくなりました。
Tさんの治療中、窓際で寝転んで、治療が終わるまで静かに待っている姿も無くなりました。
日陰でジッとしているくろべの存在を、その息遣いで確認するだけの日が続くようになります。
最後に見たくろべの顔は、左の頬が大きく膨らんで、左目が小さく潰れた状態です。
9月末、Tさんの息子さんから突然の電話が入りました。
「まさか」と一瞬思ったのですが、Tさんが玄関先で転倒し、大腿骨と手首を骨折したという内容でした。
「まさか」はまさかでしたが、まさかTさんが緊急入院するとは。
大腿骨頭を骨折すると人工関節になるので、予後のことが心配になりました。
骨折の状態をすぐに聞いたのですが、息子さんもそこまでは把握できていないようで、後日、確認することになりました。
3週間が経過したころ、Tさんの携帯電話に連絡を入れました。
ようやくご本人とつながり、人工関節は必要ないことが確認でき、手首も複雑骨折になっていないことがわかりました。
すでにリハビリを始めていて、以前から痛みのある右膝にも負担がかかるので、早く鍼灸治療を受けたいという話でした。
くろべのことも気にはなっていましたが、この時はあえて聞かずに会話を終えました。
11月末、退院が決まったことを知らせる電話がTさんからありました。
Tさんの股関節の状態とくろべの生存がとても気になっていたので、早速、治療のため往診を開始しました。
往診途中、公園を通り抜けていきます。
公園に到着する頃には、くろべは柵のところにスタンバイしています。
公園の空気にくろべの気配を感じ取ろうと、五感を澄ましながら自転車を漕いでいました。
ご自宅に到着し、門のところで真っ先に柵を見ました。
柵が大きく開いたので、くろべがいないことを悟りました。
足が不自由なTさんは玄関まで出てくるのが大変なため、くろべが寝ていたウッドデッキの窓から家の中へと入りました。
靴を脱ぐ際、窓の外の血痕が目に入りました。
Tさんの調子を聞く前に、くろべの話を切り出しました。
なんと、昨日の未明に息を引き取ったそうです。
Tさんが帰宅した、わずか2日後のことです。
腫れあがった頬は、その膨張に耐え切れず、皮膚がはち切れ、多くの出血がありました。
夏の猛暑を乗り越え、厳しい残暑をも乗り越えて、ただひたすら最愛のTさんの帰宅を信じて待っていたのでしょう。
入院前、毎朝、Tさんがシャッターを開けるのを楽しみに待つのですが、腫瘍が大きくなってからは心細いのか、朝早くから催促するように鳴くようになっていたようです。
ご近所に迷惑になるからと、Tさんはくろべに吠えないように言い聞かせます。
利口なくろべは、Tさんの言う通り、鳴くのを我慢したのでした。
Tさんもくろべに遭いたくて、予定を繰り上げて、2か月で退院したのでした。
この奇跡は、Tさんとくろべの絆の強さが作り出したものです。
今日の往診中、ふと窓の外にくろべの気配を感じて思わず振り返りました。
君は本当に頭の良い犬でした。
「くろべは賢いね」と褒めると、しっぽを大きく振って応える君の姿を忘れません。
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